高取城跡
[2019年1月14日]
ID:236
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高取城は、今を溯ること約670年前、中世南北朝時代、大和高市一帯を治める豪族・越智一族が、標高583mの高取山の頂に砦のような城を築いたのがその始めと言われている。山頂を引きならして曲輪(くるわ:城・砦など、一定の区域の周囲に築いた土や石のかこい《広辞苑》)をつくる。尾根筋に沿って幾段もの曲輪が連なり、要所要所に掘割がつくられ、守りとなっている。恒久的な軍事施設はなく、立派な櫓・天守もない、自然の地形に多少の工作を加え敵を防ぐ形態の城を掻揚げ城(かきあげじろ)と呼ぶ。吉野方面との連携をはかることが当時の使命であり、非常の場合、軍事権をもつ惣領が一族・郎党を引き具し、ここにたてこもるのである。
1585年(天正13年)大和国郡山城主 豊臣秀長の重臣 本多太郎佐衛門(1万5千石余)が高取城主となり、天守閣・石塁など本格的な築城が進められた。これは郡山城を本城とし、高取城を詰城、即ち控えの城として計画されていたもので、最後の一戦を決すべき拠点として重視されていたのである。1640年(寛永17年)幕府大番頭 植村家政が高取藩主となり、以後14代228年、植村家が藩主となる。時代が進み、世が泰平になるにつれて山上の生活が不便となり、城下町に下屋敷、即ち藩主の居住並びに政庁がつくられ、家臣も下に屋敷をたまわり下りてくるようになった。下屋敷は、はじめ宗泉寺の位置にあったとも言われ、後に下子島村のうち、土佐町に近い場所に移された。天正期以後の整備・拡張により高取城は「芙蓉城(ふようじょう)」とも言われ、『巽高取雪かと見れば雪でござらぬ土佐の城』と歌われた。
明治維新の後、明治政府は各地にある城郭のうち、58城を残し、144城の廃毀を決めた。大和の国の郡山、高取の2城も廃毀となった。高取城は、明治6年入札により、詳しくは残っていないので不明であるが、城郭の大部分が寺院などに売却されたと思われる。ただ人里離れた山頂であるため、その縄張りにおいては完全に近く遺構をとどめており、昭和28年に国の史跡に指定されている。
二ノ門外、城下町に下る大手筋と岡口門の分岐点にあり、制作は、飛鳥時代の斉明朝(7世紀)と推測される。高取城築城の際、石垣に転用するために明日香から運ばれたと言われている。
明日香檜隈(ひのくま)の吉備姫王(きびのひめみこ)の墓の域内にある石像物と同類のものである。郭内と城内の境目を示す「結界石」とした説もある。
年号 | 元号 | 主な出来事 |
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1332 | 元弘2 | 越智那澄 高取城を築き南朝に加担する。 |
1333 | 元弘元年 | 鎌倉幕府滅亡。 |
1438 | 永享10 | 越智家経、壱岐別所に殺され高取城没落する。 |
1572 | 元亀3 | 織田信長、室町幕府を滅ぼす。 |
1580 | 天正8 | 筒井順慶、高取城を郡山城の詰城として修築する。 |
1583 | 天正11 | 下克上により越智氏滅亡し、高取城は松蔵弥八郎(順慶家臣)の根拠地となる。 |
1585 | 天正13 | (順慶病死後、豊臣秀長が郡山城主となり)脇坂安治、高取城主となる。同年、安治淡路に転封、本田政武(秀長家臣)高取城主に封ぜられ、これを増築する。 |
1590 | 天正18 | 豊臣秀吉、天下を統一する。 |
1600 | 慶長5 | 関ヶ原の戦い起こる。松蔵重政、高取城を攻撃する。 |
1603 | 慶長8 | 徳川家康、江戸幕府を開く。 |
1637 | 寛永14 | 本多利家没し、高取城主本多家絶える。 松平輝隆(石見守)高取城主(六万石)となる。その後、川勝丹波守、小出伊勢守、九鬼式部、谷大学など城番を務める。 |
1640 | 寛永17 | 植村家、高取城主となる。(家政二万五千石)以下、家貞・家言・家敬・家包・家直・家久・家利・家長・家教・家貴・家興・家保・家壺 14代続く。 |
1867 | 慶応3 | 大政奉還、王政復古。 |
1871 | 明治4 | 廃藩置県。 |
1877 | 明治10 | 西南の役。 |
1890 | 明治23 | 高取城解体始まる。 |