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清水谷遺跡5世紀中頃に造られた最古級の人工池を検出!

[2022年2月16日]

ID:1278

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清水谷遺跡5世紀中頃に造られた最古級の人工池を検出

はじめに

▲清水谷遺跡(上空南から)

▲第2トレンチ(上空から)

 清水谷遺跡は清水谷に所在し、平成13年度の第1次調査で5世紀後半のオンドルを伴う大壁建物を検出し、韓式系土器等が出土しました。今回の2、3次調査地は1次調査地の北側の清水谷323番地で、工場増設に伴う受託事業として令和3年5月10日~7月30日(第2次)、国庫、県費補助の範囲確認調査として10月4日~11月末の期間(第3次調査)、現地調査を実施しました。

 その結果古墳時代中期の石組方形池、中期末の大壁建物、中世の土坑、柱穴、素掘り溝等を検出し、須恵器、土師器(韓式系土器含む。)、瓦質土器、土師皿、そろばん玉形紡錘車、刀形木製品、馬歯等が出土しました。調査面積は2次調査が620平方メートル、3次調査が416平方メートル、合計1,036平方メートルです。

▲刀形木製品出土状況

検出した主な遺構と出土遺物

石組方形池

 土手状に造成した傾斜地に、1辺0.3~0.5mの川原石を3~4段に積んだ石組を3方向で検出し、直角に曲がる角を3ヶ所確認しました。石組は人工池の護岸と考えられ、護岸された池は東西26m南北13mの規模で長方形だったと考えられます。池の深さは現状0.5mで、床面に敷かれた石は確認していません。護岸の基底には大きな石を使い、石の目地が通っています。西側護岸から幅約0.9mの石を詰めた暗渠が約4.6mにわたって西南方向に続きトレンチ外側に達しています。この暗渠は池の上澄みを排水する排水溝と考えられます。池の護岸や埋土から5世紀中頃~後半頃の須恵器、土師器等が出土しています。

▲石組池南側護岸

▲石組池北側護岸

▲石組池北東角部分(北東から)

大壁建物

 石組方形池護岸の内側に当たる部分に位置する東西11.8m、南北10.8mの方形の大壁建物で、切り合い関係から方形池が廃絶してから建てられたと考えられます。幅0.4~0.6mの壁溝内に直径0.2~0.3mの柱穴の痕跡を確認しました。東側の壁溝に出入口と思われる壁溝が途切れた部分があります。壁溝内の柱穴から5世紀末頃の須恵器が出土しています。

▲大壁建物(上空から)

▲大壁建物(北東から)

まとめ

 石組池を埋め立て大壁建物が構築されています。大壁建物は約12m×11mで、大壁建物としては最大級です。

 石組池の護岸や池の数箇所から焼土や炭片が確認され、焦げた土器や刀形木製品も出土しています。また馬歯等も出土しており、池で祭祀行為があったと考えられます。

 池の用途は、御所市の南郷大東遺跡、東大阪市の西辻遺跡のような、祭祀を行った池とも考えられます。大阪府立狭山池博物館長の小山田宏一氏は「かんがい用とすると石を貼るなど立派すぎるし溜池としては池の深さが浅過ぎるのではないか。」と指摘されています。また、奈良文化財研究所長の本中真氏は「南北で護岸の形態が異なり、池内から種子や植生が在ったというデータが見られない等の理由から王権が関わった苑池というのは考えにくい。」と指摘されています。いずれにせよ5世紀中頃に造られた最古級の石組方形池で、渡来人が清水谷に来て池を造ったと考えられます。

 『日本書紀』応神天皇7年に「高麗人、百済人、任那人、新羅人が来朝し、池を造り韓人池と云う」という記載があり、清水谷の例がこの韓人池に当たるかどうかは不明ですが、記載に見られるような人工池を検出したという調査成果が得られました。

ご案内

 周辺施設に駐車場はありません。路上駐車は近隣の住民の迷惑となりますので、絶対におやめください。

 なお、現地説明会は実施しません。

 調査成果と出土品の公開は、令和4年3月高取町歴史研修センターで開催予定の「高取の考古学5」で紹介します。


お問い合わせ

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教育委員会
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